反原発派の運動・言動を見ていると、いつも違和感を感じる。実社会から離れたところにいる人が、空理空論を言っているようにしか聞こえない。なぜか?と考えていたが、以下のような結論に至った。
■反原発派の職業の偏り:原発・被曝のリスクを過大視し、被災地の瓦礫受け入れを拒否したり、原発を全て無くせ!と言ったりするような、「急進的な」反原発派の顔ぶれを見ていると、その多くが、
「文学部系」(あるいは虚業系)の職業についている。例えば、社会学者、芸能人、作家、マスコミ関係者、ジャーナリスト、主婦(プロ市民)、などだ(自称○○も含む)。(なお、ここでは、実際に文学部卒かどうかではなく、大ざっぱに分けて、法律・経済等以外の文系=人文科学系(芸術系を含む)の職業に就いている人、という意味。)
一方、理工系、経済学部系、法学部系などの「実業系」には、急進的な反原発派は、ほとんどいない。つまり、日本経済を実質的に支えていて、現実の社会・ビジネス・技術を知っている人は、極端な反原発(除染に巨額の予算を使えとか、原発は即時全廃とか)という非現実的な考えには至らない、ということだ。(ごく一部、トンデモ系の理系の学者が、反原発を叫んでいるが、これは単に希少性を利用した売名行為にすぎない。)
例を見てみよう。先日、反原発派の人達が、意見広告を出した:
<意見広告:「私たちは原発のない日本をめざします」>「思想家の中沢新一さん、内田樹さん、作家のいとうせいこうさんが呼びかけ人」とのことだ。
この広告(PDF)に出ている賛同者の肩書を見ると、ほとんど全員が、社会学者、文化人類学者、音楽家、芸能人、作家、編集者、デザイナー、ジャーナリスト、のいずれかだ。
他にも例はいくらでもある。日本経済を支える上で、付加価値が高くない人(いなくてもかまわない人)が、反原発になるのだ。
■なぜ文学部系が反原発に走るのか:(1) 文学部的思考回路:文学部系の傾向として「感性」「好き嫌い」にこだわる面がある。少なくとも、理工系や経済学部系のように、数字で、原発のリスクや、経済的な影響の分析をしない(できない)。エネルギー工学の技術的な知識も、経済・ビジネスの知識もない。
だから、原発の危険性がどれほど小さいか、原発を全て止めると日本経済にどれほどの影響が出るのか、
定量的に検討できない。彼らは、ただ、原発が「危険っぽい」「嫌い」「放射能は怖い」という、主観で動いているだけだ。
また、彼らは、0%か100%か、つまり白か黒か、という二極論で考える傾向が強い。つまり、原発推進か、脱原発か、どちらか?という基準しかない。しかし、現実の世の中は、言うまでもなく、その中間のグレーの部分で、最適解を探すものだ。原発を減らすことは仕方ないにしても、何年かけてどれくらい減らせるかを、さまざまなデータを分析し、検討するしか選択肢はない。除染に関しても、ゼロにはできないので、費用対効果から数値を出すしかない。しかし、彼らにはそれが理解できず、リスクゼロを求める。
(2) 不純な動機:文学部系虚業家の特徴として、「実業系」(理工系、経済学系、法学系)に対する、反発・ヒガミが見え隠れする。昨年の東日本大震災による福島第一原子力発電所での事故は、実業系の人達(東京電力など)が起こした象徴的な大失敗と捉えることができるため、ここぞとばかりに「一発逆転」を狙って、攻撃を強めている。
彼らにしてみれば、文学部系の存在価値を誇示するチャンスなのだ。「脱原発」は、「文明論(技術より環境を大事に)」とか「お金よりも命を大切に」とか、
文学部的な議論を展開するには、都合の良いテーマでもある。彼らは、これに飛びついた。こうしたテーマは、芸能人の活動にも結びつきやすい。「命を大切に」というのは、芸能人でも簡単に叫べる分かりやすいテーマだからだ。これを大声で言うだけでマスコミが取り上げてくれるから、売名行為としても使いやすい。山本太郎が良い例だ。
動機が不純で、利己的だから、例えば、被災地の瓦礫の受け入れは、安全性に問題がなくても、反対する。被災者のことは考えず、自分のアピールを優先する。反原発のデモ行進では、周りが騒音で迷惑していても、大声でわめく。
しかし、こうして考えると、無意味に厳しい水準まで除染しろとか、原発を即時ゼロにしろ、などという急進的な反原発カルト(反原発原理主義と言っていい)は、現実の経済・社会・技術のことを何も知らないまま、感覚と欲だけで動いている、恥ずかしい人達だ、という他ない。
最後に、原発問題の正しい理解のために、下記2冊を読むことをおすすめする。文学系ではなく経済の専門家による客観的な解説が書かれている。
「あの文豪xがxxを褒めたから」ということでxxを無理にでも礼賛、
次はxxが推挙する作家xyやyyへと権威の承認が進んでいきます。後継者指名のような性質もあります。だから世襲も横行します。宣伝を請け負うのは言うまでもなくマスコミです。仲間内の褒めあいの場や、べた褒めのための「評論」市場まで発生します。
彼らの職業に存在価値があるのか自分には疑問ですが商品価値は確かにありようです。
彼らの生存を支えているものは「イメージ」だけです。合理的論拠ではなく権威と人格を盲目的に愛してくれる支持者たちが欲しいのです。
ある意味で中東の宗教指導者のような地位と影響力を夢見ている。